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日本の独自性5 日本の仏教

学生時代にタイで黄色の服を着たお坊さんを見かけたけど、
日本の仏教とは根源が違うみたいなんですね。

【大乗仏教】:日本の仏教。信仰心のある大衆も救いなさい!(自利利他)
【小乗仏教】:悟りを得るための厳しい修行!山にこもる。(自利の追求)
(タイ・ラオス・カンボジアなど)

歴史の授業で「仏教」で思い出すのが、
平安時代の最澄と空海と天台宗と真言宗。
どっちがどっち?

それと、鎌倉時代の、浄土宗・日蓮宗・禅宗。
法然・親鸞・日蓮・栄西・道元。

なかなかこの組み合わせが覚えられなくて、
イライラしていたことを覚えています。

当時は宗派と人名のセットを覚えることに必死で、
「浄土宗と日蓮宗はなにが違うの?」と聞かれても、
「・・・」ってな状態。


● 源信(往生要集):極楽浄土を想像しなさい。その心境に達することができればOK
→【法然】(浄土宗):それは難しい。南無阿弥陀仏を唱えさえすれば、死んだときに阿弥陀仏が迎えに来てくれますよ
→【親鸞】(浄土真宗):法然の念仏理論をつきつめると念仏が大切。だから坊さんも肉食妻帯もOK(ちょいワル)

● 最澄(天台宗)
→【日蓮】(日蓮宗):南無妙法蓮華経。浄土宗は「あの世」重視だけど、「この世」が大切。今を強く生きる。この世が仏の国となる。
→創価学会・公明党

● 禅宗 【栄西】(臨済宗)・【道元】(曹洞宗)
「個人が仏になる」。そのために座禅・修行が必要。
京都の東福寺・南禅寺・天龍寺・大徳寺・妙心寺。中でも厳しい修行で有名なのが永平寺(道元)


ここでの「念仏」。これも日本だけに見られるもの。
四季が存在する日本にのみ存在する「お彼岸」。
無意識のうちに生活の文化になっている。
日本仏教もやはり世界からみたら独特な存在。

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日本の独自性4 日本の宗教

宗教の話は少し縁遠い。


「あなたの家の宗教は?」って聞かれても、
「確か仏教。浄土宗だったかな・・・浄土真宗だったかな・・・違いって何だ?」
「七五三は神社でしたけど結婚式は教会でした。」
「いや、無宗教。」
「初詣には行くけど、あれって・・・」


神道・仏教・儒教。日本に関係の深い3つの宗教。

まず、日本の土着の宗教である「神道」。
古事記・日本書紀などの古典を規範として、
森羅万象に神が宿るという考え(多神教)。

その後、聖徳太子の時代に「仏教」がインド発祥、中国経由でやってくる。
聖徳太子が支配者階級に仏教を浸透させ、
行基が全国を行脚して民衆に仏教を伝えて一気に布教が広がる。

江戸時代には武士の子は藩校にて「儒教」を教えられ、庶民は寺子屋で「仏教」を教えられる。
明治時代になると寺子屋はなくなり学校教育のスタート。
教育勅語では天皇中心の国家主義をつくるために仏教を排除し、
ベースとなったのは儒教。

時代とともに日本を覆っている宗教が変わっているけど、
ベースは神道なのかなぁ・・・


誰が言っていたか忘れてしまったのだけど、
日本は宗教に関心がなさ過ぎるって批判に対して、

「日本ほど宗教的な民族はいない。
 無意識のうちに宗教的な行動ができている。
 ここまで意識せずにお宮参りに行き、教会へ行き、お寺に行く。
 こんな民族はいない。」

またアメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンは、世界を8個の文明に分類して、
今後の世界は思想の似ているこの8文明ごとにまとまりを作っていき、
文明同士の関係(衝突)が世界を形作っていく。と主張している。

その文明の背景には宗教があるとしている。
そして、日本が単一国で1つの文明と定義している。


文明の衝突
文明の衝突と21世紀の日本

神道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93

仏教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99

儒教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99

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日本の独自性3 日本人の美徳感

こんなレポートがある。
太平洋戦争後に来日した中国人記者がまとめたもの。


「一番驚いたのは食糧事情が悪いために、
 みんな飯を食べないで青い顔をしている。
 ところが子供だけは頬っぺたが赤くて栄養満点だ。
 これは親が犠牲になって子供に飯を食べさせている。
 子供が親を養うというより、親が子供の犠牲になっている。」


中国の儒教の教えに「考」(親に対する尊敬・愛情)があるから、
中国では親が青い顔をしていたら
子供はもっと青い顔をしているはずだ。
だから驚くのだという。


また儒教は「欲望」を肯定しているが、
日本人は個人が欲にエネルギーを注ぐことを良しとはしない。
「私」より「公」にエネルギーを注ぐことを美徳としてきた。

「武士は食わねど高楊枝」。
武士道精神につながってくるところだけど、
お金よりも道徳を求める。


当時の欧米諸国と比較しても、
日本以外の支配階級の人たちが決まって持っていた
「権力・教養・富」。

日本の武士が持っていたのは「権力・教養」。
「権力・教養」を持ちつつ、
「富」に固執しなかった民族はやはり珍しい。

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日本の独自性2 日本人の自然観

さわらぬ神に祟りなし。

例えば江戸時代の日本人は山をみて神様がいるという。
だから、その領域にむやみに入ってはいけないと考える。
「さわらぬ神に祟りなし」の精神。

一方、同時期のヨーロッパの人たちは、
「自然は人間の敵である」という見方をする。

木は伐採する対象であり、「家作り」にしてもその違いは現れる。
木材を使い、四季にあわせて風が家中を流れる構造を設計する。
この「自然と共生する」日本式とは対照的に、
ヨーロッパ式はレンガ構造で、一切の風を遮断しようとする。

そこには冬には氷点下を下回り、自然から隔離していないと生きていけない
自然環境があるわけだが、この自然環境が
その民族の自然との接し方、自然観を決めている。

同様に、
ヨーロッパとアジアでの気候条件が、
米の生産に適しているか?小麦の生産に適しているか?
この違いも面白い。

米と小麦。
その栽培方法で決定的なのが大量の水を必要とするかどうか?
小麦は大量の水を必要としないから、山なり森林があると、
いかに木を伐採して小麦の作付け面積を広げていくかがポイントになる。

一方、稲作の場合、同じ事をすると米は育たない。
稲作には雨による大量の水が必要なために、
一定量の山を残さなくてはならない。
そして、雨をもとめて雨乞いをする。

この自然観が基盤となり、
さらに自然の四季の変化が
日本人に「日本独特の自然観」を
もたらしたのだと思う。

日本の独自性1 日本語の美感覚

日本語って何でこんなに複雑なんだろうって話していたときに、
日産のチーフクリエイティブオフィサー中村史郎さんのエピソードとして教えてもらった内容。

英語で書かれた本なり新聞の
アルファベットの部分に蛍光マーカーを引いていく。

すると、一色に塗られる。

同様に日本語で書かれた本なり新聞の
漢字・ひらがな・カタカナ・アルファベットの部分を
それぞれ蛍光マーカーで塗り分けていくと、

とんでもなくカラフルになる。

英語と日本語の違い。
そもそもの美的感覚が異なるのだから
デザインも同じではいけないという
メッセージらしいのだけれども・・・

先日もフォント(文字)のデザイナーがテレビで取り上げられていた。
アルファベットのフォントは26文字と記号のフォントさえつくればよい。

ただ、日本語のフォントを製作しようとすると
1万種類以上のファンとを作成する必要があるとのこと。

箸先3cm以上は汚さない

お金の扱い方と食事の仕方ってすごく気になる。


折れ曲がったままのお金。
お金を投げるように支払う。
財布の中がごちゃごちゃでぱんぱん。


ある温泉旅館で隣の席の人たち。
食後のテーブルをみて唖然とした。

こぼれ放題&食器もぐちゃぐちゃ
魚も無残な形に解体されていた。


「箸先五分、長くて一寸」
これは箸先の汚れは、長くても3cm以内にとどめるのが良いと言う意味らしい。

●箸はし使いのタブー(嫌い箸) 有名どころ編

[刺し箸]:料理の具に箸(はし)を突き刺す
[迷い箸]:どれを食べようかと迷って箸先をあちこちに動かす
[移し箸(拾い箸) ]:箸から箸へ食べ物を渡すこと
[移り箸]:一度箸を付けた料理を食べずに、他の料理へ箸を移す。(箸を付けた物は食べること!)
[指し箸]:箸で人を指すこと
[押し込み箸]:箸で茶碗の中のごはんを押し付け、固めるようにして食べること

●箸はし使いのタブー(嫌い箸) 絶対に これはしないだろ!編

[探り箸]:具をかき混ぜる
[涙箸]:汁をたらしながら料理を運ぶこと
[ねぶり箸]:箸先を口の中に入れてなめること
[寄せ箸]:器を箸で引っかけて引き寄せる。(器は両手で取り上げること!)

●箸はし使いのタブー(嫌い箸) あぁ これはしないだろな・・・編

[重ね箸]:同じ料理ばかり何度も続けて食べること
[模箸(もぎ箸)箸についたごはん粒などを口でもぎとること

●箸はし使いのタブー(嫌い箸) へ〜 そうなんだぁ・・・編

[渡し箸]:箸を器の上に渡して置くこと
[にきり箸]:箸を握ったまま片手で器などを持ってはいけない。箸はいったん置いて両手で器を取るのが正式

ルイ・ヴィトンと日本の家紋の関係

ルイ・ヴィトン


「自分の家の家紋って何ですか?」

即答できる確率って、おそらくあまり高くないはず。。。


1896年に考案された星と花の柄にイニシャルを組み合わせたルイ・ヴィトンのモノグラムデザイン。このデザインは日本の家紋がモチーフだったとか。パリ万国博覧会をきっかけとして大人気になったジャポニズムの影響で、当時のヨーロッパは日本文化が大流行。そのときに日本の家紋から誕生したのがモノグラム柄。


●その家紋の発祥は平安時代に貴族から(見栄を家紋に託して)

まだ広く文字が普及していなかった平安時代。
当時の貴族(公家)たちが、牛車や輿・装飾品などの持ち物に好みの「マーク」を付けたのが始まりとされている。他人の持ち物と区別するため+他家への「デモンストレーション(自慢)」の意味でも役立っていたとか。


●戦国時代に武家が採用(マークから憧れの対象に)

戦地での混乱を避けるため、敵味方を見分けるために、よりシンプルで一目で判別しやすいデザインの「マーク」を採用した武将。戦火の広がりとともに家紋は全国展開へ。

そして、単に目印としての扱いから「一軍を率いる者の証」(権威)として捉えられるようになる。野心のある者は皆「家紋」にあこがれた、戦で功労のあった者に、褒美として「家紋」を与える風習もでてくる。秀吉が苗字と「桐紋」を賜った話しは有名。


●江戸時代に花開く(町人パワーで急加速)

徳川の安定期になると、「家紋」はもっぱら「権威の象徴」。水戸黄門の印籠(葵の紋処)に「ははぁ〜」でお馴染みのように。

参勤交代が制定されると、各地の「諸大名の家紋」を知ることは公務上必須の課題となる。道中で他の大名と出会った時、適切な礼儀作法を取らなければ大変なことが起こる時代。大名行列の先払(さきばらい)には「諸大名の家紋」に精通したものを配置するなどしていたらしい。

そして元禄文化に花開く。町民文化が花開く頃「家紋」は庶民に開放され、デザインが一気に多様化。
役者は洒落心たっぷりの紋で舞躍り、遊女も好んで紋を付け、恋する二人はお互いの紋を重ね合せ、町衆は好みの紋を選んで身にまとい、紋上絵師(もんうわえし=家紋を専門に描く職人)は自在に形を変えた紋を世の中に送り出し、「家紋」で溢れるお江戸の街で人々はその美しさを競い合ったようです。

こうして「家紋」は、世界に類を見ない優れたデザイン群を形成していきます。


●明治時代ではすべての家が家紋を所有

長く続いた封建時代が幕を閉じ、一般庶民に「苗字」や「家紋」の使用が許されるなど、明治時代は日本の様相を一変。


家紋日本
http://www2.ocn.ne.jp/~kamon/

ひだか家紋
http://www.asgy.co.jp/

家紋百景
" target="_blank">http://aal.msis-net.com/kamon/index.html

七味唐辛子の七つの原料は?

七味唐辛子

七味唐辛子は、日本の食文化が生んだ独自の「混合スパイス」。
七味唐辛子はそもそも「漢方薬を食に利用できないか」という発想で生まれたものだというが、

「七味の七つの原料って言えますか?」

---
Wikipediaで調べて見ると
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%91%B3%E5%94%90%E8%BE%9B%E5%AD%90

七味唐辛子(しちみとうがらし)は日本の調味料。唐辛子を主原料とし、各種の副材料で風味をつけるとともに、辛味をほどよく抑えている。七味唐辛子というのは上方風の名前で、江戸では七種唐辛子(こう書いてなないろとうがらしと読む)と呼ばれるのが普通であった。しばしば「七味」と略される。

実はその原料は生産者によって異なっているのだという。

唐辛子:寒ければ発熱、暑ければ発汗と食欲増進
芥子(けし、ケシの実) :精神安定
陳皮(ちんぴ、ミカンの皮) :せき止め
胡麻(ごま) :滋養強壮
山椒(さんしょう) :健胃や整腸と、解毒作用
麻の実(あさのみ)
紫蘇(しそ)
海苔(のり)
青海苔(あおのり)
生姜(しょうが)
菜種(なたね)

七味唐辛子に決まった七つがあるわけではない・・・らしい。


●日本三大七味

全国的に有名な薬味屋は以下の三軒。

◇東京・浅草寺門前の「中島屋(やげん堀)」
生唐辛子、焙煎(ばいせん)唐辛子、黒ゴマ、陳皮(ミカンの皮)、サンショウ、ケシの実、麻の実

◇長野・善光寺の門前にある「八幡屋」
蕃椒(唐辛子)に、白薑(生姜)、紫蘇、山椒、陳皮、胡麻、麻種
http://www.yawataya.co.jp/index.html

◇京都清水寺の門前にある「七味家」
赤唐辛子・山椒・白胡麻・黒胡麻・青紫蘇・青海苔・麻の実
http://www.shichimiya.co.jp/index.html


●七味の由来

6種類でも9種類でも「七味唐辛子」と言ばれているが、この「七」は薬味の数ではなく、京都清水寺の門前にある「七味家」の屋号を食品メーカーも含む全国の薬味屋が使用しているからだという。


●唐辛子の歴史

世界の三大スパイスといわれる「ペパー(胡椒)」・「シナモン(桂皮)」・「クローブ(丁子)」と肩を並べるほど世界中で広く使われているトウガラシ(チリ)。世界中に広めた人物は、クリストファー・コロンブス。

唐辛子は中央アメリカ・南アメリカ・西インド諸島が原産地で大昔から栽培されていた。
コロンブスがアメリカ大陸発見の時、中南米チリで「インディオ」が痙攣や下痢の薬として使っていた「唐辛子」を発見(1493年頃)し、タバコとともにスペインへ持ち帰ったのがはじまり。

その後、スペインから日本へは、16,7世紀ごろ、タバコと一緒に渡来した。


●七味唐辛子は、関東と関西でブレンドが異なる

江戸時代、関東では「ソバ」、関西では「うどん」が人気だったため、その「つゆ」にあわせて、七味唐辛子の味が微妙に変化してきたのだという。

「蕎麦つゆ」は基本的に濃い口の醤油味。「うどんつゆ」は薄口の醤油味で昆布やかつおの風味を大切にするため、西に向かうほど辛みより香りが重視されていたらしい。

日の丸の歴史

日の丸

世界で最もシンプルな国旗に数えられる日の丸(日章旗)。その歴史を調べてみた。
白地に赤丸。これは太陽を意味しているといわれる。ただ、世界的に太陽が赤で描かれることは珍しく(太陽は黄色、月は白が一般的)、日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的であったというわけではない。

例えば、高松塚古墳・キトラ古墳の日象は金・月象は銀。「平家物語」で那須与一が射た「紅に日いだしたる扇」は赤字に金の丸を描く「錦の御旗」だったという。

そして、1853年のペリー来航。次の来航に備えて黒船を迎え撃つ必要性がある考えた島津斉彬は、大船・蒸気船に「異国船に相紛れるために白帆に朱にて日の丸を描いてよいか?」と幕府に願いあげる。結果、日の丸を日本国総船印に定めるとの布達が出される。

その流れを明治政府も引き継いだのだが、郵船商船と海軍で国旗規定が異なっていた。
◇太政官布告第五十七号(郵船商船用国旗)
縦横:七対十 ●:縦の五分の三 ●の中心:さお側に百分の一寄る
◇太政官布告第六十五号(海軍用国旗)
縦横:二対三 ●:縦の五分の三 ●の中心:旗の中心

戦後、海軍関係の法令は失効したために、五十七号型の規定が残ることになるが、世界の国旗の寸法は二対三が一般的だったので、国際会議などでは使いにくいことが多かったという。

1999年「国旗及び国歌に関する法律」
・国旗は、日章旗とする
・日章旗は縦を横の三分の二に、日章直径を縦の五分の三に日章中心は旗の中心に定める
・彩色は地を白に、日章を紅色にする

ただ、この背景には1996年頃から公立学校の教育現場で、日の丸の掲揚と君が代の斉唱が事実上義務づけられるようになったことに、反対する社会問題がある。1999年には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に、君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する教職員と文部省の通達との板挟みになっていた校長が自殺した事件が法制化に拍車をかけた。

反対派の意見。
・終戦以前の日本の国家体制は「軍国主義」だ
・日の丸はかつてアジア近隣諸国への侵略を進めた大日本帝国の象徴
・君が代は天皇主権の賛歌
・最近では、民族・国家の枠組みを消極的にとらえる"地球市民思想"が広く流布
・民族性の象徴ともとれる日章旗同様、君が代を否定

一方肯定する意見の例としては、
・世界の国々は、国の独立を示す象徴として国旗・国歌を持っている
・各国は、互いの国旗・国歌を尊重し合い、敬意を払っている
・これは、近代国家における常識
・戦争は時代背景と政治的理由によるもの
・だから、国旗が日の丸だから、国歌が君が代だから戦争になったわけではない
・君が代で天皇の御長寿を祈ることは、天皇により象徴される日本国及び日本国民すべての長久繁栄を祈ること

国旗から連想するものに、サッカーの国際試合のときにスタンドの観客の上に敷かれるバカでかい日の丸がある。オリンピックで日本人選手が金メダルとって、国旗掲揚と君が代が流れるテレビ中継を見て、誇らしくなる日本人の感覚って確かにあると思う。日本への批判として日の丸を燃やしている外国人に対して、「このやろー!」って思う日本人感情ってあると思う。

「日本文化の独自性って何だ?」

友人から出されたこのお題。提出期限は10月19日。
この答えを求めて最近は本ばかり読んでいます。

答えを見つけようとすると、
どんどん歴史の勉強に突入してしまっています。



江戸時代。

mother:母

侍は「母上」
町人は「おっかあ」

I:私

侍は「拙者」
町人は「あっし」「手前」


江戸時代では階級の違いによって言葉も違っていた。
明治政府が言語を統一しようとして、「お母さん」という造語を作って、「私」を定着させようとした。

こんな国はちょっとないとのこと。

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「昭和」という「国家」
司馬遼太郎
NHK出版
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